今日から、検察審査会議決通知書の本文に入る。
米本和広氏のブログ「火の粉を払え」によると、一回目の監禁から脱出した後藤徹さんはホームに帰り、拉致監禁の恐怖から職場に戻ることができず、信徒組織で伝道活動や教育活動に従事していた。その後1988年末には妹が両親と兄に拉致され脱会、1992年8月に3万双祝福合同結婚式に参加するも、相手の方が拉致監禁され脱会、1993年ごろ兄が同じく拉致監禁被害者の兄嫁と結婚という、まるで悪魔に魅入られたかのような、拉致監禁にまつわるエピソード満載の年月を過ごしている。1995年8月にソウルでの36万双祝福合同結婚式に参加した直後の同年9月11日の夜のことであった。同じく「火の粉を払え」ブログの後藤徹の陳述書C に、その日のことが詳しく記されている。
1995年9月11日夜、東京都西東京市の自宅(父親宅)に帰宅して滞在中、両親、兄、及び庭に潜んでいた見知らぬ男性らによって四方八方を囲まれ、左右両脇を抱えられ抵抗できない状態にされて、家の中から引きずり出され、ワゴン車に監禁されました。後日判ったことですが、庭に潜んでいた男性は、宮村が経営する株式会社タップの従業員でした。ここが議決通知書の最初の検討点となっている。
通知書は
これに対し被疑者らは、申立人を無理やり連れて行っても話にならないので、1時間半から2時間くらい家族で話し合い、しぶしぶではあったが申立人が行くことを承諾してパレスマンション多門に行ったものであり、逮捕も監禁もしていないと述べている。と被疑者の意見を加味して検討。その結果として、
申立人は家から引きずられて家を出る際、靴を履いたか否か記憶がないと述べている。父宅からワゴン車までの距離は10メートル弱で、この間を引きずられるようにして裸足同然の状態で歩いたとなれば、当然記憶として残るものと考えるが、記憶がないということは靴を履いたものと考えられる。そうであれば同行を拒否し、引きずられてという主張には疑問が残る。と後藤さんの主張に疑問を呈している。
げげげの鬼太郎ではないが、まさしく「げげーっ」である。1995年というと、今から約15年前の話である。15年前のある1日のある時間に靴を履いたかどうか問うているのである。これは、ちょっと無理な問いではないだろうか。そんなこと、覚えているわけがない。「引きずられるようにして裸足同然の状態で歩いたとなれば、当然記憶として残るものと考える」というがブログ管理人としては、そんな無理やり引っ張られようとしているときに靴を履いたか履かないか、逆に記憶する余裕がないだろうと思うのだが。しかもここで「えっ」と目を何度もこすって読みたくなるのが、「記憶がないということは靴を履いたものと考えられる」という部分だ。記憶がないと言っているのに、記憶がないのは靴を履いたのだと。ここの部分は牽強付会過ぎるのではないだろうか。後藤徹さんはこれに対して、「全国 拉致監禁・強制改宗被害者の会」のブログでこのように反論している。
私は決して自宅から移動することを承諾したわけではなく、自分から行ったわけでもありません。私は、当該事件から8年前に既に拉致監禁を経験しており、その時も監視の目をかいくぐって脱出した経緯があったために、再び拉致監禁されることがあれば、今度は、簡単には解放されないと思い、警戒していました。従って、自分からわざわざ監禁場所に行くなどということは絶対にありえないことです。
靴を履いたのだとしたら、それは、兄と父に両脇を抱えられ無理やり引きずられるように連行される途中、かろうじて履いたものだと思います。当時の記憶が鮮明でないのは、気が動転していたことと、この日から既に12年以上が経過しているためです。通知書の冒頭から、すごいことが書いてあるものだと唸ってしまう。
また次に通知書では、父親宅は閑静な住宅街にあり、家々が立ち並んでいること、父親宅から無理やり移動させられたのが午後9時前後であったことから、後藤氏が大声を出して救助を求めることは容易にできたのに、行っていない、と述べている。一見、「あっそうか」と思ってしまいそうな文章である。ところが、ここで「あっそうか」と思うのは拉致監禁がどういうふうに行われるかを知らない人だ。拉致監禁をなくす会に加入していろんな人の証言を聞いている会員メンバーは、たいていの場合、それが無駄に終わることを知っている。後藤さんも、最初の拉致監禁を経験し、それ以後も妹さんの拉致監禁を見ている。それが無駄に終わることを想定して、ここは救助を求めなかったことが十分推測される。
ちょうどそのことを実証するかのような事例が最近発生している。先の米本氏のブログ「火の粉を払え」で、孝成教会のHMさんの体験談が掲載されている。少し引用する。
これまでの監禁の記憶が蘇り、<また同じことをされるのか>。深雪は危機感を覚え、咄嗟に窓から逃げようとした。両親が後ろから捕まえ、中に引き込もうとする。外に向かって、叫んだ。そういうことなのだ。いくら助けを呼んでも、また通行人が通報してくれても、警察は家族の問題と言って取り合わない。これが拉致監禁被害の実態なのだ。このことをよく知っている後藤さんであれば、大声を出しても無駄だと判断するだろう。如何に検察審査会メンバーがこの手の出来事に無知であったかが分かる。もっとも、この時後藤さんが大声を出さなかったのは別の理由による。後藤さんは「全国 拉致監禁・強制改宗被害者の会」のブログでその点に触れている。
「助けて!誰か来て! 助けて!誰か来て!」
いつの間に外に出たのか、姉夫婦が窓の外から顔を出し、窓を閉めてしまった。
家に引き込まれた深雪の興奮状態は治まらなかった。
そんなとき、警察官がやってきた。近所の人が通報したのだろう。
深雪は懇願した。
「私は過去に家族から2度監禁された経歴があります。そのときに精神的にひどく追い込まれました。監禁は法に触れる行為です。今回も前と同じ状況になるかもしれません。なんとか、家族を説得して、私を自由の身に戻すようにしてもらえませんか」
制服姿の警察官は、深雪にとって“希望”そのものだった。
しかし、警察官はこういうばかりだった。
「家庭内のことですから、ご家族でよく話し合ってください。あなたも自分の意見ばかり主張しないで、親御さんの言い分をよく受けとめ、また親御さんも娘さんの意見をよく聞いて、静かに話し合ってください。家庭内のことなので、警察は事件として介入することはできません」
深雪は、去っていく警察官の後ろ姿に向かって、繰り返し叫んだ。
「見捨てないでください。見捨てないでください」
希望は一転して絶望に。
声が出なかったのは、恐れや焦りで気が動転していたためです。被疑者等の突然の拉致行為によって私が恐怖に陥り気が動転していたことを理解しようとしない検察審査会の認定は、余りにも理不尽だと思います。検察審査会の通知書は、自分だったらこういう行動をとるだろうという、平時でこそできる判断を書いているのであって、拉致監禁というアブノーマルな状態、、非常事態を迎えての人間の状態というものはそうそう理詰めで反応できるものではない。後藤さんの主張の方が、説得力がある。
警察すら助けてくれない、という恐ろしい状況を、検察審査会の委員はわかっていない、理解しようとしなかった、ってことですね。
すばらしい分析。本当、すっきりします。
さらに、もう一読すると、もっと深刻な疑問に突き当たります。次回は、本当は今回の本文の冒頭に書くべきであったと反省している事柄から入ります。それは、みんなさんも理解してくださったように、拉致監禁についてよくわかっていなかった検察審査会の委員がどうしてこのように立派な通知書をかけたか、という疑問です。この疑問がどうしても今の段階では解けないのです。なぜ私がそういう疑問を持つようになったか。そのヒントは「拉致監禁をなくす会」のブログに書かれた米本さんのコメントにあります。次回を期待ください。